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  • 執筆者の写真反田孝之

はんだ牛蒡はなぜ競合せず、賛辞を欲しいままにいただけるのか

かなり心の余裕を持ちながらの草取りマラソンが淡々と続いている。来週は高校生10人にこの作業を体験させる機会をもらっていることもあって、草を削りながらいつもと違うことを考えたりする。トンネル内の除草を子供に体験させるのは初めてなのである。


作業が上手くできるかどうかということはもはや興味の対象外だ。終わってみて、どうせめちゃくちゃになっている。だから現場感覚としては、少しでもめちゃくちゃにされないようにする、つまりゴボウの生育が邪魔されないようにする。足の踏み場とか、削り深さとか、そこを徹底する。どうせ除草の技術面 ―― 恐ろしく深いもの ―― の習得など彼らにとってはまったく意味がない。わずかな時間の体験から何を得てもらうか、それについてはもう見定まっている。このたびの機会は私にとっても興味をなす一つの「体験」である。


(代わり映えのしない、いつもの「職場」)


体験のことは置いといて、このトンネル内の除草の奥の深さについてはこれまでにもたしか書いてきた。実ははんだ牛蒡をそれなりの量世間に送り出せているのはこの除草技術のおかげであるし、もっと本質的に言えば、この除草の奥深さが分からない人がほとんどだからはんだ牛蒡は競合しないし、日本一美味いという賛辞を散々いただけるのである。


「君は鉱脈を掘り当てたな」とは学生時代の恩師である造園屋の社長の口癖。さすがに上手いことを言われる。否定はしない。そして私がこの鉱脈を掘り当てることができたのは、採算性に世知辛い現代農業にとってはこの一見して何の役に立ちそうにもない人力除草の技術という道具を・・岩をチマチマと砕くツルハシのような道具を、持っていたからだと確信している。


この技術と巡り会えたこと、つまり岡山の農業研修先の社長さんとの出会いは私にとってあまりに運命的だったということができる。その巡り会えた「この技術」というのは、直接的には草を削る行為のことではあるが、実は精神面やモノの見方のことではないかとも思える。そこはあやふや。だからこそ奥が深いのだろう。


今日も淡々と進めながら、自分がさらに上手くなりたいという気持ちに満ちていることに気付く。もうこれは本能だ。こういう本能というものも、そうか、奥の深さを認識したからこそ身についたものなのだろう。


一方で、この手法に変わる省力技術は考えていかねばならない。そこはまったく矛盾しないし、みんなそちらの方に興味があるはず。いや~、実に奥が深い。

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