top of page
  • 執筆者の写真反田孝之

一心不乱にお経を唱えるということ

身内の不幸が続く。先月は女房の祖母、96歳。このたびは近所に住む私の叔父、81歳。ともに悪くなってからが早かった。


人が自宅ではなく病院で死ぬようになってから死は我々から遠い存在になった。現代ではその遠くなった死について、かろうじて考える機会を与えてくれるのが通夜の際の坊さんの説教だろうと思う。好き嫌いというとはばかられるが、このたびのお坊さんは地元中学で教鞭をとられていた方だから説教も分かりよくて好きである。子供らも死について生について幾ばくかの理解になったのではないか。


坊さんというのはいつも言う。日ごろから死について考えるのは良いことだと。私もそう思う。でも世の中には死の話なんて・・と嫌がる人の方が私の経験からも圧倒的に多い。こんな現代だからこそ坊さんの役割は大きい。通夜の席など含めて、我が子らには努めて「死」について考える機会を持たせたいと思っている。


お坊さん(浄土真宗)はいつもこういう。一心不乱にお経を唱えていれば極楽浄土へ行けるというのがお釈迦さんの教えだと。このことは私にとっては大変おもしろくて、一心不乱にやれば救われるのは何もお経だけではないのだろうと。お経以外のなんでもいいから「日々同じことを繰り返す、ただし大志をもって」ということが大事なのだろうと。そう解釈するから、同じことの繰り返し、しかしながら使命感を持っていなければきつい、という私の日常があまりにヒットするおかげで、自分の生きざまは「とりあえず」はこれでいいのだろうと思っている。こうやっているうちに幸せになって極楽浄土へ行けるかどうかは分からないけれど、意図せずお釈迦さんの言うような人生に導かれていると考えると、なるほど一見難儀な今の生きざまが何やら尊いものに思えてくる。正しく理解していない勝手な解釈かも知れないが、だからお釈迦さんってのは大した人だなあと。


お釈迦さんだけでなく、この娑婆にも大した人がたくさんいる。この娑婆で1人でも多くの「大した人」を見つけることは大変意義のあることだと思っている。


最後に、叔父には大変お世話になった。直接の関りは20代半ばで3年半一緒に仕事をしたこと。多くの土木現場をともにした。中でも大雪の大邑農道などは、ついこの前のことのように思い出される。

最新記事

すべて表示

どうも最近いけない。体も心も頭も。まったく自分の体ではないようだ。ここ数年で徐々に増してきた感覚。今年は一気に進んだ感じがする。体の方は何事もペースを落としてやれば大きな問題にはならないし、心の方も萎えたところで困ったことが起こるわけではない。厄介なのは頭。どうにもチョンボが増えた。経営的な損失は自業自得で済ませられても、約束を忘れたり勘違いしたりして人に迷惑をかけてしまっていけない。 おそらく男

一流の定義っていろいろあるだろうけど、漠然というなら、凄い人から「凄い!」と言われること、というのがあるだろう。 凄いと言われることがよくある。でも言ってくれる人って、ほとんどが素人。そりゃ私のやってることなんて、素人から見れば何でも凄いだろうよ。 一方で、私が凄いと思っている人から凄いと言われることが稀にある。こういう時は、頭の遥か上の方から鳥瞰する。私がいて、隣にいる誰からかに凄いと言われてい

今日は小3の次男が楽しみにしていた遠足。三瓶のサヒメルなんて何度も行ってて最近も行ったのに、それでもみんなで行くから楽しみなんだと。そりゃそれでいいことだ。 遠足は近頃は必ず雨の心配のないインドア。今日なんて三瓶山に登れば気持ちがいいことだろう。私らの頃は遠足は必ずアウトドアだった。小4のときにまさに三瓶登山で、しかも親子登山。母も含め、多くのお母さんらが参加して、男三瓶~女三瓶の縦走をした記憶

bottom of page