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執筆者の写真反田孝之

低レベルの歪んだ自我

昨日から中3の長男が3日間の職場体験に出向いている。出向先はリストの中で唯一(らしい)の農業会社(まあ製造業っぽいけど)。一応は農業を選んでくれたのかなと内心嬉しい。


せっかくなのでこういう時の心構えくらい伝えて置けば良かったと今ふと思った。私が言ったことはというと、「ガン飛ばしてくる奴がいたら睨み返して、それでもダメならぶん殴ってこい。」などといういつもの冗談。まあでもいいか。伝えたいことはというと、人の動きをよく見て真似をしろ、程度のこと。そういうことは、この年頃の子はほとんど誰もが身についていることだから。


それが多くの人は成長するに従って、だんだんひねくれてしまって人の真似ができなくなっていく。私が思うに20歳くらいではおそらく8割がそうなってしまっている。真似の大事さを教えれば5割に減る。つまりそれでも半分は頑として真似をしようとしないか、ちょっとは真似してみた後にすぐに我流に戻るということだ。


まあこのことはある程度は仕方のないことなのかもしれない。偉そうに言う私だって、修業中に真似をしないと殴られるくらいの勢いで押さえつけられたからこの能力を獲得できたのかもしれない。そう、真似ができるということは、すでに立派な能力である。そのくらい人様の真似ができない人が多い。こういう人はきっと増えている。それを肌で感じる。


そしてこういう人は、個性というものを明らかに勘違いしている。ひどい場合は他人と違うこと自体が、また人の言うことを聞かないことこそが個性で大事なことだと思っている。そんなのはただの「低レベルの歪んだ自我」に過ぎない。人生のどこでこういうふうになってしまったのか。


一方で修業とは、そういうものを極力排除していって、つまり自分(低レベルの自我)というこれまでの人生の垢を消していって、最後に残る(肉体がある以上必ず残る)ものが個性だというのが、もう当たり前すぎる認識である。しかしなかなかこのことは簡単には理解されないし、「そんな人生はつまらない」とまで言う人もいる。それなら職人はみんな没個性的で、つまらない人生を送っているのかと聞きたい。真逆だろう。


我が子らには、この低レベルの歪んだ自我に惑わされずにいつまでも自分を律し続けて欲しい。このたびの職場体験でそういう視点があったかどうか、山に登った時にでもさりげなく聞いてみて、その大事さにふれてみたい。


ところでこのたびの職場体験のリストに載せないかとのお誘いはうちにもあった。でもこの時期は中学生に3日間も確実にやってもらえることがないのだ。これまでに2回受け入れたことがあったが、天気や段取りで大変苦労した。そういうわけで断った。こういう場で関われないというのは、以上のようなことを憂える私にとっては、何とも残念でならない。

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