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  • 執筆者の写真反田孝之

含蓄の無さこそが含蓄だ

この言葉が好きである。昨年くらいに本でこの表現に出会った。私が無意識のうちに取ろうとする姿勢がまさにこれ。いかに含蓄がなさそうに振る舞うか。修業時代に学び、憧れ、自然に培った感覚だ。 中身がないことの言い訳だろう、と思うのは自由だし、自然か。私もそう思われて一向に構わない。このことを分かるのは簡単ではないし、分かる必要もない。だからこそ修業は難しい。ついでに、パラドックスぽくてすでに含蓄があるじゃないか、と思われるのはかなり悔しい。だから普段は絶対に使いたくない。 これ以上を言えば種明かしになるので控える。ただ、若者は手本となる人に含蓄ばかり追い求めないで、含蓄を感じられない人を「エライ」と思いこんでみるのもいいと言っておく。何か違った世界が見えてくるかもよ。


まあいいよ、忘れなさい(笑)。

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