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  • 反田孝之

含蓄の無さこそが含蓄だ

この言葉が好きである。昨年くらいに本でこの表現に出会った。私が無意識のうちに取ろうとする姿勢がまさにこれ。いかに含蓄がなさそうに振る舞うか。修業時代に学び、憧れ、自然に培った感覚だ。 中身がないことの言い訳だろう、と思うのは自由だし、自然か。私もそう思われて一向に構わない。このことを分かるのは簡単ではないし、分かる必要もない。だからこそ修業は難しい。ついでに、パラドックスぽくてすでに含蓄があるじゃないか、と思われるのはかなり悔しい。だから普段は絶対に使いたくない。 これ以上を言えば種明かしになるので控える。ただ、若者は手本となる人に含蓄ばかり追い求めないで、含蓄を感じられない人を「エライ」と思いこんでみるのもいいと言っておく。何か違った世界が見えてくるかもよ。


まあいいよ、忘れなさい(笑)。

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年末くらいからずっと、やたらと眠るようになった。まず夜は毎日9時間くらい寝ている(笑)。朝6時半に起きるというのがバス通学の子供らの日課だが、私が起きれないことで家族で寝坊、ということがあって困る。 そして休日の昼間にも3~4時間くらい寝てしまう。当然子供らから残念がられるし、冬の間にやっておきたい自宅周りのことも一向に手がつかず焦っている。 平時の日中はシャンとしているのが救いか。 例年のことだ

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