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自家採種のこと

執筆者の写真: 反田孝之反田孝之

天気が悪いうちにやろうと思っていた種籾の脱穀作業をようやく昨日から。脱穀機を倉庫から出すための障害が二三あって、それだけでずっとできなかった。


脱穀は足踏み脱穀機による手作業。一粒たりとも他の品種と混ざらないようにするためには単純な構造の機械がよい。昨日2品種について脱穀自体は終えて、今日は混じったゴミを除く作業をやろうと朝からごそごそやっていた。だがこれもやり方の思案とか、これまた使う機械を倉庫から出すための障害があったため、午前中いっぱいかけてまだどうにもなっていない。


(案の定、やりたがる。)


自家採種というのは奥が深い。哲学(や数学)のようなものだ。今さらそんな勉強なんかしたくないという人が多いように、農業者で自家採種をしたがる人は極めて少ない。


自家採種は、現実的には大変面倒くさいし、頑張った挙句に目に見えるリスクがある。一方で目に見えるメリットはなく、しかしながら目に見えないメリットがあるはずで、それを天秤に掛けようと思えればやる価値を見出す余地があるというものだが、目に見えないものは哲学で考えるしかない。


私の自家採種の取り組みポリシーは、繋ごうとする行為自体が尊い、というもの。繋ごうとして途切れるのは仕方がないし、品種などもどうでもよい。哲学で考えてこうなったのであって、本当は自家採種した方が儲かる(増収する、品質が上がる、など)という打算的な理由を見出したい。そうでなければ、大多数の生産者や消費者から変わり者のこだわり作業と見なされてしまって、どうにも残念である。しかしまだそう言えるような実感を得られておらず、忸怩たる思いばかりだ。


地元小学5年生の大豆栽培の取り組みは、種まきから収穫して味噌して食べるまでの一連の体験ばかりに注目される。しかし私の一番の思いは次学年へ種を繋ぐことである。もちろんここは哲学でよい。哲学の部分と打算の部分が一致することで双方がそれぞれらしくなる。


ゴボウも大豆も理由は違うが、数年前に途切れてしまってまた振り出しに戻っている。繋ぐからにはずっと繋ぎ続けたい。お米だけは16年間ずっと繋いでいる。作業は大変面倒だが、途切れる心配の低い作物だ。ぜひ農家でない方も、家庭菜園で一品種でいいから種を繋ぐことをしてみて欲しい。私のような人格者になれるかもしれない(笑)。

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