top of page
  • 執筆者の写真反田孝之

農薬を使わずに農業を始めるには

とあるSNSで​、農薬を使わない栽培での新規就農についての難しさが語られているのを目にした。栽培は何とかできる、難しいのは販売だ、と。大枠には私も賛成だ。


ただ、農薬を使わない栽培の方が販売先を見つけにくい(からやめた方がいい)、ということについては、私の場合には当てはまらなかった。私の場合は農薬を使う、つまり普通の栽培の方が販売には不利だと分析していたからだ。もちろんただ販売するだけなら値を下げればどうにでもなる。採算が取れる販売、には不利だと考えたということだ。


果たしてその見込みがどうだったのか。当面は上手く滑り出すことができた。3~4年目の規模拡大時には売り先がなくて途方に暮れた。しかしそれは2年程度で解消した。


だから見込みは正解だったのだ、とは簡単には言えないと思っている。私の場合は、農薬を使わない農産物としての販売先が運よく見つかって、栽培前にあらかじめ何となく決めておけたからだ。当時の主要生産物である大麦若葉、米については、あやふやの口約束ではあったがとりあえず差別価格での売り先の当てがあった。この事情は大きい。


だから要はやり方だ。売る前から何となくの販売先を作っておければ、農薬を使わない栽培による経営だって十分ありだろう。肝心なのはあくまで「何となく」だ。作る前からきちっと契約してくれる人などいない。作った暁には取ってもらえるか、というくらいの緩い打診で感触をつかんでおく。何がってそここそが経営努力。人付き合いやコミュニケーションが試されるところ。


走りだせれば、あとは何とかなる。正確にはいつまでも「何とかする」ではあるが、初っ端に比べれば何とかなるのレベル。


農業経営に必要なのは(他産業並みの)人付き合いの能力、ということは、もうあちこちで散々言われていることですでに常識化しているだろう。だが人付き合いが苦手だから農業くらいならできるだろうという勘違いが幅を利かせていたころは確かにあったし、わざわざその必要性が説かれるというのも農業分野がいかに勘違いされているか、見下されているかということでもある。私としてはこのネタにはもう飽き飽き。


農薬の使用について、私も今の農業を始めて以降、ゴボウに関しては一時使おうかどうかと悩みつくした時期がある。結果的には運よく一粒も一滴も使うことなくここまでやってこれたけれど、食の安全や環境への負荷を考えたときに、これまで何度か書いてきたように農薬の使用はそれほど悪いものだと思っていない。(千葉での自己研修時代にはいろいろ使ってみたものだ。)


何事も「根本」と「対症」。「定性性」と「定量性」。農業を始めようとする人は、難しい販売の事情さえ何とかなるのなら、初めは農薬を使うことを許容するべきだろう。農業経営での理想の追求は当たり前だが経営あってのもの。そして徐々に理想に近づけていけばいい。自然栽培の講習会でしつこく言われることでもある。

最新記事

すべて表示

段取りが難しいの~。大豆をやればゴボウが進まん。ゴボウをやれば大豆が進まん。・・・平和っていいね。 戦場では子供らも多く死んでいるらしい。我が子が戦争で死ぬなんてとても想像がつかん。赤紙が来て、息子を取られて、どうやら死んだらしい・・、なんて気が狂いそうだ。でもつい最近にあったこの国の現実。 息子たちが志願して兵隊になって死んでいったというなら、感情はまた別。「かけがえのない命」と「ちっぽけな

2~3年前から年間でわずか1日限定でゴボウを供給している某市の給食センターと電話で打ち合わせをしていたら、検便を求められてビックリした。いくら何でも明らかにやり過ぎだろう。 「回避しうるリスクと失うもののバランスが悪すぎる」というのはコロナ騒ぎで呆れたこと。また「何かあったらどうするんだ症候群」というのは近年のうんざりする傾向。この検便の件って、これらの最たるものではないだろうか。誰が発案して、誰

始めにアイデアを出す際には定性的視点のみでも良い。しかしその実現を検討していく段階では定量的視点が必要。でないと失敗は目に見えている。だからネガティブや老害と思われても、とりあえず反対しておかざるを得ない。 「いいじゃないか、とりあえずやってみれば」というのはそれなりの高いレベルでのことでありたい。やる前から失敗が目に見えるというのでは労力も金も無駄だし、そのうち士気が落ちる。 もっとも、やってみ

bottom of page