top of page

50を過ぎて後退した自分を見つめ直す

  • 執筆者の写真: 反田孝之
    反田孝之
  • 2021年10月20日
  • 読了時間: 2分

更新日:2021年10月21日

近頃、寝る前に布団の中でこのブログのアーカイブを見ている。探し事以外で、これだけ気合を入れてみることは珍しい。


なぜ見ているかというと、今一度自分を見つめ直すため。ここ数年、経営がうまくいかない。もちろん毎年のようにやって来る大洪水のせいなんだから仕方がない。しかしだ。もし大洪水がなかったとしたらどうだったろう。もしかしてそれなりに下手な経営になってはいなかったか。大洪水に隠れて見逃してはいないか。50歳を過ぎて、気力、体力、情熱などのあらゆる面で劣化の激しさを感じるこの頃だから、そう思える心当たりもある。


そして見つめ直す中で、これから経営を作り直していかねばならない今、劣化の激しい自分をもってして、どのようなパフォーマンスが可能かと考えた。どうも今までのような気持ちや価値観では太刀打ちできないんじゃないかと。経営を上手く作り上げるために必要なのは何を差し置いても「運」だと考えているから、つまり今のままではその「運」を掴めそうにないと。


将棋の羽生善治は私と同い年だ。前人未到の99のタイトルを獲得して、100まであと一つになってからここ3年は無冠のままだ。羽生に限らず、棋士はこの年代になると弱くなる。しかし弱くなったながらも何とか活躍を続ける人というのは、自分を分析して作り直す努力をしている。


棋士と農業者ではあまりに違うと思えるだろう。しかし同じ職人であり勝負師ーー農業者も勝負師。日々のタイミング取りは切るか切られるかの大勝負ーーとしては、何ら違いはないと私は思う。


アーカイブを見て、特に経営の調子のよかったころの私は、自分で言うのはなんだが、正直一味違う。凄いなこいつは、と。そしてその頃の自分を思い出して、成り切ってみる。そうしてみると確かに今の自分とは全然違う。こんなに変わったのかと。戻るのはちょっと無理。そして客観としての驚きと、主観としての落胆が入り乱れる。その余韻を布団の中で温める。


どうやって運を掴んでいくか。勢いではなく、熟すことでその活路を見出すべきであろう。では熟すとはどういうことか。最近はこのことばかり考えている。

最新記事

すべて表示
自然栽培実践者としてのプライド

一昨日、ようやくお米の色選がけが終わり、数量も確定し、お米の販売先への割り振りもほぼ決まった。大きな区切りが一つついたのだから気分は幾分晴れやか。いつもならここでコルトゥラーダのワインを開けて打ち上げと行くし、ちょっと前までその気満々だったのに、すでに11月繁忙期が始まり、段取りはぐちゃぐちゃ、頭の中ぐちゃぐちゃ、体もぐちゃぐちゃで、さすがにその気分ではなくなった。 今年はお米が豊作と何度も書いて

 
 
どうして農業をやっているのか

今日の午後、ついに休んだ。もちろん本線作業は満載。でもそろそろ潮時かなと。 で家に帰って2時間ほど爆睡したあと、次男用に買った漫画、「ザッケン」が目に留まる。高校の雑草研究会なるサークルの物語(全四巻)。ちなみにこの漫画の「監修」となっている中尾佳喜くんはかつてうちで研修していて、今でもゴボウの収穫の季節には手伝いに来てくれている。 これを読みながら、そういえば自分も小学生の時は雑草に興味があった

 
 

コメント


この投稿へのコメントは利用できなくなりました。詳細はサイト所有者にお問い合わせください。
    bottom of page