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50を過ぎて後退した自分を見つめ直す

執筆者の写真: 反田孝之反田孝之

近頃、寝る前に布団の中でこのブログのアーカイブを見ている。探し事以外で、これだけ気合を入れてみることは珍しい。


なぜ見ているかというと、今一度自分を見つめ直すため。ここ数年、経営がうまくいかない。もちろん毎年のようにやって来る大洪水のせいなんだから仕方がない。しかしだ。もし大洪水がなかったとしたらどうだったろう。もしかしてそれなりに下手な経営になってはいなかったか。大洪水に隠れて見逃してはいないか。50歳を過ぎて、気力、体力、情熱などのあらゆる面で劣化の激しさを感じるこの頃だから、そう思える心当たりもある。


そして見つめ直す中で、これから経営を作り直していかねばならない今、劣化の激しい自分をもってして、どのようなパフォーマンスが可能かと考えた。どうも今までのような気持ちや価値観では太刀打ちできないんじゃないかと。経営を上手く作り上げるために必要なのは何を差し置いても「運」だと考えているから、つまり今のままではその「運」を掴めそうにないと。


将棋の羽生善治は私と同い年だ。前人未到の99のタイトルを獲得して、100まであと一つになってからここ3年は無冠のままだ。羽生に限らず、棋士はこの年代になると弱くなる。しかし弱くなったながらも何とか活躍を続ける人というのは、自分を分析して作り直す努力をしている。


棋士と農業者ではあまりに違うと思えるだろう。しかし同じ職人であり勝負師ーー農業者も勝負師。日々のタイミング取りは切るか切られるかの大勝負ーーとしては、何ら違いはないと私は思う。


アーカイブを見て、特に経営の調子のよかったころの私は、自分で言うのはなんだが、正直一味違う。凄いなこいつは、と。そしてその頃の自分を思い出して、成り切ってみる。そうしてみると確かに今の自分とは全然違う。こんなに変わったのかと。戻るのはちょっと無理。そして客観としての驚きと、主観としての落胆が入り乱れる。その余韻を布団の中で温める。


どうやって運を掴んでいくか。勢いではなく、熟すことでその活路を見出すべきであろう。では熟すとはどういうことか。最近はこのことばかり考えている。

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