• 反田孝之

哀愁

昨日は母の命日。5年前の今日の慌ただしさを思い出す。最後に母に会ったのは亡くなる日の5日前の11月8日。その間、母は九州に行っていたので会えなかったのだ。この5日間の空白が今だに悔しく心に残る。


最近作業の合間に、遠くを見ながらぼんやりと過去を振り返ることが増えてきた。すっかり老いぼれてしまったかのようなことを言う。これを冬へ向かう季節特有の哀愁のせいにしてしまうこともできなくはない。


しかしここに他の理由を加えるなら、老いぼれだけでなく、ここ数年の度重なる洪水、急速に拡大する田津の遊休地の風景、というものを外すことはできそうにない。精力をつぎ込んできた田津地区へのこの数年の洪水の仕打ちは、確実に私を変えてしまった。ある感覚に、強いていうなら「虚無感」、というものに常に覆われている。ちょうど1年前くらいはこの感覚の支配に面食らったものだ。しかし今、これと上手く折り合えて、特に困ることがないどころか、むしろ幸福感を増すことに役立っているのではないかと思える節もある。52年、もう精一杯生きた、という満足感もここから自然に湧き上がってくるのだという気がする。


そして虚無感を抱える原因は洪水に加えてもう一つ、母との別れもあるだろう。母に死なれて根無し草。残された父の老いるを見るにつけ、父との別れという次のステージを想像する。そしていつか自分の死。女房や子らとの別れ。


死ねばどこへ行く。魂とは何か。意識とは何か。宇宙の外には何がある・・・俺を屈服させられるもんならやってみろ。


明日は大豆の種採り圃場の収穫。品種が混ざらないようにコンバインなどの機械の掃除を今日これからする。虚無に覆われ、あらゆることに価値がなくても、この掃除には価値があると感じる。こうやって日々と今の農業人生を送っている。