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追悼

  • 執筆者の写真: 反田孝之
    反田孝之
  • 2020年12月31日
  • 読了時間: 2分

1年の締めくくりのタイミングで書いておきたい。


年末にお世話になった2人の方が亡くなった。


1人は私が今の農業を始めたときからの強力な応援者であった方だ。初めから私に期待をされていて、私の就農のために合計2㏊の田んぼを譲ってくれた人の中の1人である。ある時、作業を終えたばかりの私のところで車から降りて、いきなり拍手をされる。あんたはすごい、と。すっかり認めてもらえて、困ったことがあれば自分に言えと、何度も声をかけていただいた。人間関係の難しかった下の原地区での営農でどれだけ励まされたことか。


長く病気をされていて、最後には声が出なくなり、話したのは2年前の補助金の説明会場での筆談が最後。最後の最後まで病気を押してご自身の畑に向かわれていた姿が脳裏から離れない。


もう1人は民間稲作研究所の稲葉先生。送られてきたDVDで久々にお顔を拝見したばかりだったので、あまりに突然の訃報だった。先生の存在は就農前から知っており、就農後勉強会に参加させていただいたり、実際にうちの田んぼに来ていただいたりもした。先生の講演の後、私が事例発表をしたこともある。日本の有機稲作の最大の功労者とも言われるような方でもある一方で、食事や懇親会の場ですすんで時間を割いてくれる気さくさも持ち合わせておられた。「たんださん!」「先生。はんだです。」「どうしてもたんだになっちゃうんだよなあ。」となかなか正しい名前を覚えてもらえなかったこともあまりに懐かしい。


しかし自然栽培の世界を知った2009年以降、つい疎遠になってしまった。悔やまれるのは、長らく会員であった日本の稲作を守る会を脱会したこと。事務局からではあるが、これまで会員であったことに対し丁寧なお礼がハガキで送られてきた。訃報はそれから間もなくのことだった。


人間は誰でもいつかは死ななければならない。お世話になった方々のことを時に思い出しながら、私もできる限りのことを恩送りしていきたいと願う。


最後に、謹んでご冥福をお祈りします。

(2008年6月。下の原の田んぼで稲葉先生と)


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