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  • 執筆者の写真反田孝之

ヤケ半分と、冷静さ半分で、いろいろ考えるここ数日。田津の築堤と今後のうちの営農に関することだ。


(昨日たてられた用地杭。農業遺産の87圃場の4割に食い込む。)

ヤケの部分は、このまま為されるままだけにしていると、最終的には田津は荒れ野原と化しそうだから、堤防ができたら地域はこんなになってしまうのかと、この選択があまりにも過ちだったと多くの人に自覚してもらうために、私はもうどんな田津地域への貢献を放り投げて手を引こう、人間は一度は過ちだったことを認めなければ、いつかまた同じような過ちを繰り返す、という考えからきている。


冷静な部分は、過ちを認めるべき人たちはそう遠くないうちにあの世へ召されるからいまいち甲斐がない、もはやこの虚しい大土木事業は、大筋では何をも覆っこないのだけれど、ちょっとした細かい変更によって結果が劇的に変わるということは世の中の常であって、そういう視点で今まで生きてきたのだから、このたびも地味に工夫の余地を考えていくべきだ、そしてその方が後の世代のためだという考えからきている。


当地の事情を知らずこれを読む人は、反田はどれだけ不遜なのかと思われるかもしれない。しかしながら、例えば田津の農地の(あるいはそれ以外のいくつかの)行く末は、現状からして9割方は私の考え方ひとつである。思い上がろうと何だろうと、これは現実なのだから仕方がない。何の権力的地位にもいない私などの1人の考えで、ぎりぎり繋がっていることがいくつかあるほど、すでに当地の行く末は細っているのである。


ヤケが半分以上顔をのぞかせたときには、帰宅して子供らと接するのが辛い。しかし冷静さが戻って来るときは、彼らの存在をありがたく思う。彼らがいなければ、たびたびの洪水によって密かに潜伏している虚無感が、またもや私を覆ってきて、何をも諦めてしまうかもしれない。


今日は長男の義務教育の卒業式。再来週は末娘の卒園式。子らが着実に成長する間に、私は地味でいいから、一つでも多くの可能性を未来に残していきたい。



  • 執筆者の写真反田孝之

人間関係でストレスが溜まっている。最近は特に。


一番の理由は、話が通じない。それと短気が多い。しかも世代を問わない。


他人の顔の裏に、支配欲、対抗心、妬み、ひがみなどが、透けて丸見え。話をすれば、論理的に会話がキャッチボールにならなくて、辛い。お互いを穏やかに認知し合った人と普通の会話をしたい。もちろんそういうシーンの方が当然多い。でもそうでないシーンがもっと少なくていい。


まあ、今に始まったことではない。1000人中の10人と付き合うのと、10人中の10人と付き合うのとの違い。田舎でのあるあるだ。

  • 執筆者の写真反田孝之

気が抜けた・・。まあ、これまで分かっていたこと。しばらく見ないふりをしていたこと。


田津の築堤の件である。こうやって図面を見せられて具体的な話をされると、見ないふりをしているわけには当然いかなくなる。うちのゴボウ経営のシンボル的存在である「87」圃場が、面積自体はいくらかの減少で済むのだけれど、仮設道で重機の通り道となって蹂躙されるという。こうなると踏圧の問題で、もうこの圃場は放棄せざるを得ない。輪作計画では次の作付けは今秋~来夏なので、理屈ではこれが最後の栽培になりそう。


しかし、それすらもうやめてもいいかもしれない。我々の農業は、作付けというのは、経営のために売り上げを上げるためにするというのはもちろんだが、未来に向けて土を作るためにするということもできるのだ。言い換えれば、未来のない圃場での作付けというのは意味がない、とまでは売り上げがある以上は言わないが、どうにも虚しくてやる気が起きないということだ。作付けとは虚しいままで惰性でできるようなものではなく、体と気持ちに力が入らないとダメだ。体と気持ちに力が入らなければ、今進行中の草取りマラソンも含めて8か月もかかって育て上げるということが、しかも洪水によってダメにする可能性を背負った上でのことだから、とてもできるものではない。


堤防完成の後、重機によって蹂躙された場所を、これまた重機の力によって深耕して、試しに栽培を継続してみる、というも選択肢の一つとしてまずは考えられないことはない。しかしここは対岸の築堤によってちょうど江の川の川幅が狭隘化する場所となり、しかも洪水時の流れの緩衝材となっている竹藪を切り開かざる得ない場所でもある。踏圧以前に、流れにより圃場の表土が洗われ、農地としての体裁をなすかどうかが、怪しいを通し越して、すでに確定的であると言わざるを得ない。あまりに甲斐がないのである。


同時に、ゴボウ栽培の主力であるこの87に、隣の85も合わせて、この2圃場から撤退するとなると、残る圃場は一等地の56,58,68、二等地の57の、トンネル棟数にしてわずか30数棟ぶんの農地があるのみである(少なくなったことに改めて驚愕する)。ここらは仮設道ができない可能性もあるようだから、そうなればこれらの圃場で、今の半分くらいの規模で、つまり10棟規模の輪作ローテーションで栽培するという選択肢がまずは一つ。


もう一つは、わずか10棟規模で栽培するくらいなら、田津で営農する限りは多面や中山間での農地維持をうちが請け負わざるを得ないのだから、その負担も考慮すれば、高評価で散々持ち上げられているこのゴボウ栽培にいっそのこと終止符を打ち、農地維持の請け負いもすべて放棄して、きれいさっぱり田津から撤退してしまうという選択である。もちろんこれら圃場が仮設道等で蹂躙されることになる場合は、そうせざるを得ない。


ちょうど87の目と鼻の先の対岸で、築堤に反対して退かず、周囲を工事車両に囲まれながらも悠々と小さな畑を耕しておられる方がおられる。もし私がその方の様に歳を取っていたなら、同じようにとは言わないまでも、何かしらの反対の意思表示の行動を取るだろうと思う。しかしまだこれから子らに金のかかる現役世代の私には負担が大きい。生来のひねくれ者である私にとっては、難しいか簡単かではなく、負担が大きいか大きくないかの問題である。


それにしても、うちのゴボウがこの世から消えてもいいものだろうか。いちいち言ってこなかったけれど、これまでにどれだけの高い評価をもらってきたかを誰も知るまい。農業遺産ともいえる(と私は思っている)87圃場がなくなるのはもう諦めるとして、それ以外の圃場は仮設道が通らないことを祈り、当面は少々の負担を飲み込んで、私はゴボウを作り続けるべきなのだろう。


堤防が治水対策として客観的に最良の方法であるなら、または後世の人から認められる可能性が高いものなら、私も潔く諦めることだろう。しかし関係者はわかっているように、実際はそうでない。明らかにそうでない。だから悔やむ。

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