昨日から秋まきゴボウの草取りマラソンにようやく参戦。女房と山藤君のおかげで、現在の進捗率53%。目標は今月中の終了。普通に考えれば十分現実的だ。しかし今日明日の予報の様に氷点下がきつい気温の中でやってもいいことにならない。こういう日がこれから何日あるかということだ。


それと私の体。昨日はわずか1時間を経過したころに腰を中心に悲鳴を上げ始めた。歯を食いしばって脂汗かきながら(笑)1時間半をやってもう限界。情けない。少しずつ整えていくしかない。


それはさておき、トンネル内で悩ましい状況を発見。


「落ち込み」だ。これは露地栽培の春蒔きで起こりやすい症状。トレンチャーをかけて膨軟になった層に雨水が流れ込んで起こる。こうなったところの前後数m、場合によっては数十mのゴボウが股根や短根になって商品価値を大きく下げてしまう。この写真でも穴から10mくらい先まではダメそう。


しかし今では対策をしていて、春蒔きでさえあまり起こらなくなっているし、秋蒔きのトンネル内で起こったことはごくごく軽度のものがちょっとだけ。それが、このたびは酷いレベル。春まきでも滅多に見ないくらいのこれが、少なくとももう一カ所ある。


一見して理由は簡単に見える。モグラの穴を通じて水を吸い込んだのだろうと。実際にモグラの穴から流入している。しかしどうにも違和感。モグラの穴はこれまでにだって散々あいていたし、これだけ落ち込ませるほどの水を溜まらせた雨は降っていない。しかももう一カ所はトンネルの中の条が落ちている。モグラの穴由来ならまずは端の条が落ちるはず。


となると怪しいのは地下水。つまりモグラの穴から水が入ったから落ち込んだのではなくて、どちらかというと落ち込んだから水が入ってきたのだ。そうなると根本的にこの圃場ではゴボウが期待するほど育たない可能性がある。対策もほぼない。


この圃場でゴボウを育てたのは2005年と2009年のみ。実際にあまり育たなかったが、それは春蒔き由来の可能性が高いと考えている。むしろ優良農地だろうと、一度手放した圃場を再び借り受けてこのたび作付けしているという経緯がある。


栽培というのは農地1枚1枚の条件と向かい合うことから始まる。とりわけ自然栽培では。ここが路地農業の大変なところだ。そこが面白いということは、言おうとすれば言えなくもない。だが、とうにその境地は過ぎた。

年末年始は、これで3年連続で、体調が最悪だった。発熱してくれば分かりやすいのだが、結局、まったく熱は出ず。5日連続で1分も仕事をしない、酒も飲みたくない、という新記録並みに長引いて、昨日はどうしても急ぎの仕事だけは片づけたけれど、ようやく今日からまともに動き始めたところ。


ゴロゴロすれば自然と様々なことを考える。ただ体調が悪い中ではあまり前向きなネタはない。といって後ろ向きというわけでもなく、まるでこの世の傍観者かのように、自分の生き方も含め、様々なネタについて眺めるといった風。


歳を重ねているから、当然これまで見えなかったことで、見えてくるものがある。しかし一方で、これまで見えていたのに、見えなくなっていることだって必ずある。後者は見えなくなってしまったのだから気づかないだけのこと。失ったものは何だろう、と考える癖がついている。このたびもついそういうことを多く考えてしまった。


人は何のために生きているかというベタな命題。人と繋がるためだなと、これまたベタな解を思わずにはいられない。


そして改めて「実践者」としての生きるべきと。私には格好よく見せることも見られることも必要ない。(それはそういうポジションの人がやればいいし、またやらねばならない。)ひたすらこの地域の諸問題に農業者の立場から関わること。そして農産物の品質はもちろん量の視点からもこれを維持し高めていくこと。日本一美味いと散々称してもらえるゴボウについてはこれをしっかり守ること。つまり私にしかできないことは最低限しっかりやるということ。


そのためには、変わった言い方をすれば、「反田って、やってることはそれなりだけど、実は人間として大したことないよね。」とかなりの人から思われるような人生を目指す。私に残された人生を生きる上では、たぶんこのスタンスがちょうどいい。

  • 反田孝之

1年の締めくくりのタイミングで書いておきたい。


年末にお世話になった2人の方が亡くなった。


1人は私が今の農業を始めたときからの強力な応援者であった方だ。初めから私に期待をされていて、私の就農のために合計2㏊の田んぼを譲ってくれた人の中の1人である。ある時、作業を終えたばかりの私のところで車から降りて、いきなり拍手をされる。あんたはすごい、と。すっかり認めてもらえて、困ったことがあれば自分に言えと、何度も声をかけていただいた。人間関係の難しかった下の原地区での営農でどれだけ励まされたことか。


長く病気をされていて、最後には声が出なくなり、話したのは2年前の補助金の説明会場での筆談が最後。最後の最後まで病気を押してご自身の畑に向かわれていた姿が脳裏から離れない。


もう1人は民間稲作研究所の稲葉先生。送られてきたDVDで久々にお顔を拝見したばかりだったので、あまりに突然の訃報だった。先生の存在は就農前から知っており、就農後勉強会に参加させていただいたり、実際にうちの田んぼに来ていただいたりもした。先生の講演の後、私が事例発表をしたこともある。日本の有機稲作の最大の功労者とも言われるような方でもある一方で、食事や懇親会の場ですすんで時間を割いてくれる気さくさも持ち合わせておられた。「たんださん!」「先生。はんだです。」「どうしてもたんだになっちゃうんだよなあ。」となかなか正しい名前を覚えてもらえなかったこともあまりに懐かしい。


しかし自然栽培の世界を知った2009年以降、つい疎遠になってしまった。悔やまれるのは、長らく会員であった日本の稲作を守る会を脱会したこと。事務局からではあるが、これまで会員であったことに対し丁寧なお礼がハガキで送られてきた。訃報はそれから間もなくのことだった。


人間は誰でもいつかは死ななければならない。お世話になった方々のことを時に思い出しながら、私もできる限りのことを恩送りしていきたいと願う。


最後に、謹んでご冥福をお祈りします。

(2008年6月。下の原の田んぼで稲葉先生と)