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  • 執筆者の写真反田孝之

「コロナ脳」とは「コロナにかからないためなら他のことはどうでもいい」という日常を定量的に俯瞰できない人を揶揄する言葉らしい。例はいろいろあるが、直接的で象徴的なのが、コロナにかからないためなら他の病気になってもいい、寿命が縮まってもいい、と解釈されても仕方のない態度だ。


これでは確かに揶揄の対象にもなる。しかしだ。実は他人事ではない。これと同じ思考回路を誰もが持っている。自分にとって絶対に譲れないことがあったときに、それを死守するためには他のことはどうなってもいいと考えるのは、ほとんどすべての人に当てはまるのではないか。


私もちょっと前には、「マスクは絶対にしない。その結果他のことがどうなってもいい。例えば友達をなくしてもいい、社会的に孤立してもいい。」と真剣に考えていた。(もちろん今でも。)だからそうなっても後悔はしない。それはそう覚悟しているからだ。


一方で、覚悟なくこの回路にはまっている人もいる。だからそうなったときに悲しんだり後悔したりする。自分にとって何かひどい目に遭ったときに、「自分はただ〇〇したかっただけなのに(それのどこがいけないのか)」と悔やんでいる人を見かける。でも当たり前。ただ〇〇したいだけだといって他のことはどうでもいいと考えている(考えているつもりはなくてもそうなっている)からそうなるわけだ。


ただ幸せに暮らしたかっただけなのに・・などはその典型。ただ幸せに暮らしたくて他のことをないがしろにするからそうなるのだ。幸せに暮らしたいのなら、「だけ」とか言わずに、他のことも少々は妥協して飲み込まなくてはならない。それが嫌なら覚悟すること。そうすれば後悔はしない。

  • 執筆者の写真反田孝之

このたびの雨。島根県は東部でかなり、江津市内でも軽微な被害が出たらしいが、当地はほぼ無傷。梅雨の末期という最大の難関期を越えたようだ。もちろんまだわからない。一昨年は8月の稲と大豆の開花期にやられたし、10年前は8月下旬と9月上旬に立て続けにやられた。


しかしとりあえずホッとした。ゴボウの収穫は無理だし、大豆畑にも入れないし、水稲の除草も終わっているので、喫緊にやるべきことからは解放されている。おかげでかなり気が抜けているところに、昨日、一昨日と久々に丸々1日半も休んだせいか、体のバイオリズムが何か変。つまりは体の修復中である。


そんな中、午前中は市内の中学に招かれて授業の講師を。行くまでは体が重苦しくどうなるかと思いきや、着くと別腹。体も軽くてすっかり楽しんでやってしまい、そしてついでに笑顔の子ども達から何か「やる気」までもらってしまった。それでせっかく来たついでだから街の風にでも当たって来るか(内藤さんも来ていることだし・笑)、いっそのこと自宅に帰って休むかではなく、つい事務所へ戻って溜まっているデスクワークなどを進めている。


今週末からどうやら梅雨が明けるらしい。畑が乾けばまた別の忙しさとなる。当面大豆の土寄せ、場合によっては一部で蒔き直し。そして途方に暮れる田津地区の遊休地5haの雑草粉砕。生育中の緑肥の処理もタイミングよくやりたい。


体が動かないときほど「淡々といく」と言い聞かせる。我が子にも、よその子にも、背中を見せたい。楽しさや口の悪さ(笑)はもちろん、淡々とした背中を。もしかするとそれが今の私の唯一の生きがいかも知れない。

  • 執筆者の写真反田孝之

今日「今期」がほぼ終わった。もちろん年度は始まったばかりだし、決算も年度締め。では何のことか。


うちの作物と作型ではこの時期に年度の大まかな数字が決まる。つまりこれから年度末まで残り9カ月を張ろうと頑張るまいと、今期の売り上げや経費は大きく変わらないということ。ゴボウは秋~冬に頑張る必要があるが、それは来期に反映される。


具体的にいうと、ゴボウはすでに今期の収量はほぼほぼ分かった。お米も生育具合から大体の見通しが立っている。大豆だけがまだ管理の真っ最中で、草をどれだけ抑えられるかで雲泥の差になるので頑張っていたが、どうやら今日の雨で確定だ。


昨日の暑さのおかげで転作田は順次乾き、懸念していた5.5haのうち、2.5haは理想の状態ではないとはいえ一応除草に入れた。もし今日も晴れだったら、残りの3haにもたぶん入れて、大豆の売り上げは大きく増えたことだろう。しかし今、また水が溜まるくらいに降っている。梅雨のこの時期だ、よっぽどのことが起きない限りこの3haのリカバーは無理。きっと秋には見事な草むらと化す。かくして大豆の成績もおおよその見込みが立ち、今期の経営の成績の見通しが立ったという意味で、終ったのである。


(一番乾きの悪い圃場。奥は草が一面生え揃っている。)


それで昨日の夜はなんとも肩の荷が下りた。少しでも乾いた部分を救うために血眼になって機械を乗り回した夕方には、悔しさから圃場で天を仰いだ。しかしその反動でやけっぱち気味にスイッチが切れた。ああ終わった終わった!と。


もちろん終わったのは決算書の数字に表れる部分であって、来期の作付けまでの土作りや省力化などの「未来を良くする努力」は続いていく。自然栽培は技術的にはむしろこちらが重要である。


付け足しておくと、洪水が来るか来ないかの要素はまだ残っており、これからが本番である。

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