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  • 執筆者の写真反田孝之

気が抜けた・・。まあ、これまで分かっていたこと。しばらく見ないふりをしていたこと。


田津の築堤の件である。こうやって図面を見せられて具体的な話をされると、見ないふりをしているわけには当然いかなくなる。うちのゴボウ経営のシンボル的存在である「87」圃場が、面積自体はいくらかの減少で済むのだけれど、仮設道で重機の通り道となって蹂躙されるという。こうなると踏圧の問題で、もうこの圃場は放棄せざるを得ない。輪作計画では次の作付けは今秋~来夏なので、理屈ではこれが最後の栽培になりそう。


しかし、それすらもうやめてもいいかもしれない。我々の農業は、作付けというのは、経営のために売り上げを上げるためにするというのはもちろんだが、未来に向けて土を作るためにするということもできるのだ。言い換えれば、未来のない圃場での作付けというのは意味がない、とまでは売り上げがある以上は言わないが、どうにも虚しくてやる気が起きないということだ。作付けとは虚しいままで惰性でできるようなものではなく、体と気持ちに力が入らないとダメだ。体と気持ちに力が入らなければ、今進行中の草取りマラソンも含めて8か月もかかって育て上げるということが、しかも洪水によってダメにする可能性を背負った上でのことだから、とてもできるものではない。


堤防完成の後、重機によって蹂躙された場所を、これまた重機の力によって深耕して、試しに栽培を継続してみる、というも選択肢の一つとしてまずは考えられないことはない。しかしここは対岸の築堤によってちょうど江の川の川幅が狭隘化する場所となり、しかも洪水時の流れの緩衝材となっている竹藪を切り開かざる得ない場所でもある。踏圧以前に、流れにより圃場の表土が洗われ、農地としての体裁をなすかどうかが、怪しいを通し越して、すでに確定的であると言わざるを得ない。あまりに甲斐がないのである。


同時に、ゴボウ栽培の主力であるこの87に、隣の85も合わせて、この2圃場から撤退するとなると、残る圃場は一等地の56,58,68、二等地の57の、トンネル棟数にしてわずか30数棟ぶんの農地があるのみである(少なくなったことに改めて驚愕する)。ここらは仮設道ができない可能性もあるようだから、そうなればこれらの圃場で、今の半分くらいの規模で、つまり10棟規模の輪作ローテーションで栽培するという選択肢がまずは一つ。


もう一つは、わずか10棟規模で栽培するくらいなら、田津で営農する限りは多面や中山間での農地維持をうちが請け負わざるを得ないのだから、その負担も考慮すれば、高評価で散々持ち上げられているこのゴボウ栽培にいっそのこと終止符を打ち、農地維持の請け負いもすべて放棄して、きれいさっぱり田津から撤退してしまうという選択である。もちろんこれら圃場が仮設道等で蹂躙されることになる場合は、そうせざるを得ない。


ちょうど87の目と鼻の先の対岸で、築堤に反対して退かず、周囲を工事車両に囲まれながらも悠々と小さな畑を耕しておられる方がおられる。もし私がその方の様に歳を取っていたなら、同じようにとは言わないまでも、何かしらの反対の意思表示の行動を取るだろうと思う。しかしまだこれから子らに金のかかる現役世代の私には負担が大きい。生来のひねくれ者である私にとっては、難しいか簡単かではなく、負担が大きいか大きくないかの問題である。


それにしても、うちのゴボウがこの世から消えてもいいものだろうか。いちいち言ってこなかったけれど、これまでにどれだけの高い評価をもらってきたかを誰も知るまい。農業遺産ともいえる(と私は思っている)87圃場がなくなるのはもう諦めるとして、それ以外の圃場は仮設道が通らないことを祈り、当面は少々の負担を飲み込んで、私はゴボウを作り続けるべきなのだろう。


堤防が治水対策として客観的に最良の方法であるなら、または後世の人から認められる可能性が高いものなら、私も潔く諦めることだろう。しかし関係者はわかっているように、実際はそうでない。明らかにそうでない。だから悔やむ。

  • 執筆者の写真反田孝之

昨日は久しぶりにトラクターでの耕うん作業をした。キャビン付きトラクターによる快適作業は、久しぶりであればちょっとしたストレス発散にもなってちょうどよい。この時期の耕うんは珍しい。一部の畑(0.55ha)を他人に譲ることにしたので、その片付けとしてやったものだ。


しかし今年はあちこちの耕うん作業を、昨秋の10月騒動のために、条件が整い次第、つまり田畑が乾き次第、早めに始めなければならない。そしてまともに理想の作業をしていては、きっと時間が足りないだろうと思われるので、あちこちを端折るつもりでいる。いわゆるベターの管理。


面積を抱え、いつもぎりぎりで回している経営では、何か予定が狂ったとたんに、一斉にベターの管理に切り変える必要がある。その結果あちこちにほころびが出る。最後に収量や品質にまで影響は及ぶことになる。言い換えれば、ある程度の犠牲を飲み込んででも全体の経営を守るということ。面積が広いということはそういうことだ、と言いたいし、当地のように洪水で定期的にやられる場合は、始めからベストの管理ができないということもある。例えばゴボウの収穫を、ゴボウの品質や収量にとっては8月にやりたいものを洪水前の7月上旬までに終わらせる、であるとか、夏にはなるべく畑に草を生やす、というのが直接的にはよい例であるし、土中の空隙がなくなって理想の状況が作れないなどという間接的な例も絡んでくる。


そんなこんなで、うちは実践技術としては、大したことがない。技術の多くが省力化やベターな管理に集約されていて、本質を追及しベストの実践を実現している人から見れば極めてお粗末なものに見えるだろう。しかしそう見られることを厭うていては、うちの今の経営は絶対にできない。今のこの経営に、それがたとえ過渡的だとしても、社会的に大きな意義があると信じて疑わないうちは、このスタイルで突き進まざるを得ないということは、本質の追求がロマンであるのと同様、こちらもまた立派なロマンだろうと自信をもって思うのである。


そのロマンチストが今リアリスト然として悩んでいるのが、昨年も悩んだ「田植え4haと大豆播種9haのどちらを先にやるんだ問題」。理想はどちらも5~6月の月替わり頃。昨年初めて大豆播種を先に計画してみたが、5月の天候不順でドツボにはまったばかり。どう転んでもベストにはなり得ないのだ。そろそろ決めよう。

  • 執筆者の写真反田孝之

一昨日まで体調を崩し、昨日から始動。おかげで体の芯から疲れが抜けた。今年は年末に体を壊さなかったし、このまま何となくゆるくやって逃げ切ろうと思ってたんだが、そういうレベルではなかったみたい。来年からの参考にする。


ちなみに発熱はなし。それでそれなりに心配した。発熱すればまずは安心、しなければちょっと不安、ってのが常識になればいいと願う。これだけで世の中の大概の問題は解決する。


でもこのたびは発熱しなくてホッとしたこともあった。こういう場合、私の場合は、経験的には感染性ではない。普段なら感染性でもいいが、今は長男の受験を控えている。あと1週間みんなで気をつける。それが終ればどんどん風邪を引けばいい。

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