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まずは自分をなくしてみよう

執筆者の写真: 反田孝之反田孝之

養老孟子氏がまた本を出されていたらしい。そこからのダイジェスト記事。



子供がただのノイズになっている、ということを始めとしてこの記事内容は、氏がこれまでに繰り返し著書で述べてこられたことだ。氏の主張は、私が農業、とりわけ自然農業をやっているせいだろうか、共感し合点がいくことが多いので、これまでにも数冊読んできた。読んでない人にはせめてこのリンクの記事は読んでみて欲しい。


ちょっと趣旨を違う方へ向ける。この記事の中の件(くだり)、


『確固とした自分があると思い込んでいるいまの人は、この感じがわからない。むしろ変わることはマイナスだと思っています。私は私で、変わらないはず。だから変わりたくないのです。それでは、知ることはできません。


でも、先に書いたように、人間はいやおうなく変わっていきます。どう変わるかなんてわからない。変われば、大切なものも違ってきます。だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。人生は、「ああすれば、こうなる」というわけにはいきません。』


これを例えば、昨日うちに来た20人弱の農業大学校の生徒に伝えたい。


これからの前途洋洋の人生の中で、農業に少なからず従事するためには修業を勧めたい。しかし今や時代は変わりつつある。そんな道は探すことすら難しい。修業の良さはいろいろあるが、その中で、修業とはまずは「自分をなくすこと」から始める。まずは自分が目指すパフォーマンスを阻害する要素(農業で言うなら「肥毒」)を、言うなれば今までの人生の垢、を洗い直すことから始めるのだ。そんな垢などない!ではなくて、必ずある。しかも大量に。そしてそれらを消し去って始めて、その人自身が求めるパフォーマンスが表れる。結果的に「個性」と呼ばれることもある。


しかし自分がなくなったら大変だ!と慌てる人が今の時代には多いのだ。なくなるわけがないではないか!と修業をした私にはあまりに阿保らしく思えるのだが。


と、実はこのことと、最後に面白おかしく伝えた修業論の前書き10ページは繋がっている。ぜひまずは10年、このことを頭の片隅に置いてやってもらいたい。そうすれば修業をしなくたっていいパフォーマンスは可能だし、人生は大いに愉快になるだろうと思う。

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