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中高生はまずは好きなことをやれ

  • 執筆者の写真: 反田孝之
    反田孝之
  • 2024年4月1日
  • 読了時間: 2分

年度初め、4月1日。我が家には普通は何の区切りにもならない。しかし今年は高校へ進学した長男が、さっそく部活動で初登校ということで、それを感じさせる朝となった。


長男が今の高校を選んだ基準は、部活動である。しかもありがちな強いとか有名なところを選んだということではまったくなくて、一度は部活動としてやってみたかった未経験の競技をやりたくて、それだと強い学校では埋没してつまらないから、むしろ弱いところへ行ったというのが本音だ。こんな理由は世間受けがしないらしく、中3時の三者面談では「そんなことで高校を選ぶものではない」と担任から言われたりもした。しかし私はいいと思った。というかむしろ大事なことではないかと思って気にすることもなかった。


社会に出て充実感を持って仕事をしている人とはどんな人か、という視点で私なりに観察してきた。そしたら「社会に出る前にやりたいことは十分やった」という満足感を得ている人がかなり多そうなのだ。それはどんなことでも良い。他人が見て大したことでなくてもよいし、つまらぬことでも良い。変な話、異性のケツを追っかけてばかりいた、というのでも良い。それが心からやりたいことであったなら、それを飽きるほどやったということが、どうやら肝心のようなのである。


何かの尊い目標のために、敢えてやりたいことを封印して進む道を選ぶというのは決して悪いことでない。むしろこちらの考え方のほうが今の世にあっては道義的に王道の気がする。しかしそれで自分の人生に不満を持ち悔やんでいた人を私は何人も知っている。


私自身、旅と山に明け暮れた青春時代で、飽きた、とまでは言わなくても、自分が思うように十分やり切った、とは思ったし、そのほかのことでも興味を持ったことは、大抵のことはかじってみたという満足感が、大学を卒業してこれから社会に出るという頃には、確かにあった。それでその後、何の未練もなくその時々の仕事に没頭してこれたのだと思っている。


屠殺の現場で、幸せに生きてきた牛や豚や鳥は、ジタバタせずに観念するのだと聞いた。例えは悪いが、その心境。私が、家族を考慮しない前提で、もういつ死んでもいいと思えるのも、つまりはそういうことだろう。


もちろん、こうやって偉そうに御託を並べたところで、我が子らの行く末どころか、私の行く末もわからない。ただ長男にとってこの部活動問題は大きいと見たし、そのほかのことでも、あまり未来というものにとらわれることなく、やりたいと思ったことは何でもやっていってもらいたいと思う。


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