top of page
  • 執筆者の写真反田孝之

「根本」と「対症」、それから「順応」

私のファン(笑)の人にはもうお馴染みだろうけれど、「根本」と「対症」というのは私にとってもはや何をするにもキーワードである。しかしここに「順応」という言葉が最近仲間入りした。と言っても私は自然栽培農家だ、順応の概念は当然のように今まであった。だが根本に含める感覚であった。しかしこれは立派に独立した一つのカテゴリーだなと。 順応というのは、あまりにも怪しい。ここに自然という言葉を引っ付けて「自然順応」というのであれば、これは私らにはあまりにも当たり前の感覚である。しかし単に順応というのでは、物事を良くするための指標的な意味合いというより、ただの結果的な現象に過ぎないようにも感じられてしまう。順応した結果、上手くいかなかった、などということもあるかと。 まあ言葉の遊びだ。本人がどう捉えるかで良い。順応が入ったことで、根本でも対症でも上手くいかないと思われることの行き場ができた感じだ。 この世の課題というのは、すべてが「良くならなければならない」わけではないだろう。「順応してみて、悪くなればそれで仕方ない」ですむことだってたくさんあるはず。 ところで昨日の王将戦は残念だった~。まだまだ強くなりたい、と語る羽生は、そのためには相当自分を変えねばならないということを自覚しているはず。まぶしいね。俺もまだまだ変わるのだ。新春の里見加奈の専売特許ではないぞ。

最新記事

すべて表示

中高生はまずは好きなことをやれ

年度初め、4月1日。我が家には普通は何の区切りにもならない。しかし今年は高校へ進学した長男が、さっそく部活動で初登校ということで、それを感じさせる朝となった。 長男が今の高校を選んだ基準は、部活動である。しかもありがちな強いとか有名なところを選んだということではまったくなくて、一度は部活動としてやってみたかった未経験の競技をやりたくて、それだと強い学校では埋没してつまらないから、むしろ弱いところへ

そういえば私は「はんだ牛蒡さん」だった

先日の「つぬさんぽ」なるお祭りで、「今のはんだ牛蒡さんだよ」とささやきながらすれ違う人たちがいた。こういうことはままあって、その時ばかりは私がゴボウ屋であり、うちのゴボウが認知されていることの責任を痛感する。 そうだったよね。さあ、ゴボウ屋よ。このゴボウを作り続けることは責任ですよ。そしてゴボウそのものの陰に隠れた、今までの工夫と努力の過程を誰かに伝えることも。近ごろ記憶が薄れつつあるが、このなけ

人付き合いでストレスが溜まっている

人間関係でストレスが溜まっている。最近は特に。 一番の理由は、話が通じない。それと短気が多い。しかも世代を問わない。 他人の顔の裏に、支配欲、対抗心、妬み、ひがみなどが、透けて丸見え。話をすれば、論理的に会話がキャッチボールにならなくて、辛い。お互いを穏やかに認知し合った人と普通の会話をしたい。もちろんそういうシーンの方が当然多い。でもそうでないシーンがもっと少なくていい。 まあ、今に始まったこと

bottom of page