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  • 執筆者の写真反田孝之

加納君との会話の記憶

15日の大山登山では、昨秋亡くなった県職員の加納君のことを思い出していた。彼はなぜ道に迷ったと気が付いたときに、引き返すでもなく、藪こぎして西進するでもなく、沢を下って行ったのか。彼の死後、このことを私はずっと考え続けてきた。現地を見ずに言うのは意味をなさないが、沢を下っていくということはかなり危険な行為であるからだ。そしてその死に、私が1%くらい加担しているのではないかという不安に駆られていた。その答えが9日に息子と登った岡山県最高峰の「後山」登山で判明した。


その「後山」では、久しぶりの「藪こぎ」を強いられた。正確には藪らしい藪などなかったので藪こぎとは言い難く、道のないルートをたどったという意味である。


山頂に登頂後、登路とは反対の兵庫県側へ下るルートを取った。途中から岡山県側へ下る、20数年前には確かにあった下山ルートを当てにしていた。しかしかなり下った時点で分かったことは、そのルートがすでに廃道と化し、まったく見当たらないということだった。


息子を連れていたので、また山頂まで登り返すことは、彼の体力を考えるとはばかられ、少し迷ってから、かつて存在したルートの場所に当たりを付け、藪尾根を下りていくしかないと判断した。尾根下りは体力的には楽だが、ルートの見極めが難しい。私一人ならどうにでもなるレベルのことだが、息子がいる。急斜面での尾根下りでは方角を変えるような大きな間違いはないものの、崖に直面するなどの状況が怖い。尾根が小さく枝分かれするたびに相当の緊張を強いられた。


ほどなく、杉の人工林が現れて、不安はそこで大きく解消された。途中からその杉林をトラバース。かつての石組みの階段を発見し、それをたどり既存の奥の院への道に合流した。


(杉の人工林が現れてからは息子にも安堵の顔が見て取れた)


その下りの最中だった。私は確信し、がっくりした。以前加納君と飲み屋で、尾根歩き、沢歩きの話を確かにしたと。私はずっとこのことを思い出そうとしていたのだ。


山歩きについては私に一日の長があり、私が披露する藪こぎ論に彼はうなずいていた。そして何ということか、日本では沢を下れば必ず人里へたどり着くという事象を軸に、沢下りの情緒性というべきか文学性というべきか、それを私は洋々と彼に語った記憶が蘇ってきたのだ。


むろん彼が何年も前に語った私の話を覚えていて、危険な沢下りに突っ込む要因になったとは、地図がいくらか読めてそこそこの登山経験があるのであれば普通は考えられない。しかし焦りが焦りを呼んだとき、かつての私との会話が判断を誤らせた可能性が絶対になかったと言い切れるだろうか。


いつの日か必ず、彼のたどったルートを追うと誓っている。

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