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  • 執筆者の写真反田孝之

予定通りで昨日稲の2回目苗箱下ろしを開始。終わって残りわずか332枚。今日は強風予報のため終わらせたいのを我慢して中止に。でも全然風が吹かん。やれたなーって。​まあいい、明日は間違いなさそう。


ところで、クイックレベラーの扱いに今年も苦戦。昨年は土塊が大きすぎて失敗。で今年はきちんと砕いて1回目は極めて上手くいった。しかし昨日はダメだった。レベラーが土に潜っていくのだ。潜ったところは悲惨。泥を熊手で寄せて体裁を作るけど当然きれいには仕上がらない。いちいち重いレベラーをどけるのも女房にはきつかったろう。


(製造メーカーのマニュアル)



1回目と2回目の違いは何か。考えられるのは耕うん~入水~レベラーのスパン。それぞれの間を空ける日数をかえることで状態が変わってくるのではないか。ちょうど耕うん~代かき~田植えでも似たようなことがあるように。


また当然ながら土質や耕うん深さの前提がある。あんまり考えてもキリがないし、甲斐もない。


来年は、前の方を持ち上げる感じで引っ張れるような細工をしようと考えていて、それで今、念のため取説を見てみるとこういう時に取りつけるオプションがあるじゃないの。


とまたここまで書いて、買わんでも自分で工夫すればいいわなあと改めて機械を見に行ったら、ぬゎに~っと驚愕の事実。牽引用のバンドをつける位置が違ってんじゃねえか・・。これじゃ潜るわ!


これを書き始めたときと書き終えたときの私は別人よ。これが変わるということなんだね~。あ~あ。

  • 執筆者の写真反田孝之

忙しい。洪水のため、そして作型やその規模の変更のため、これからは4月からが超繁忙期になるということだ。そのぶん楽になる時期があると期待して乗り切るのだ。


今日は久しぶりに稲の作業。これから2回目の種蒔き。こないだ書いたように播種機に不具合があるため、小3の息子を午後から休ませて(笑)。午後からは「学活」だけだからまあいいだろうと。


芽出しのあまりの揃わなさに不安の中でやった1回目だったが、今、苗代ではこれまでにないくらい(というか昔のように)きれいに生え揃っている。


(写真)


いろんな仮説が当たりつつある。死ぬまでにあと何回稲がつくれるか知らないが、こうやって1つずつ学んでいく。今日はいくらか気分よく種蒔きができる。


手っ取り早く役立ちそうなことを一つ言うなら、採種工程での脱穀時の籾水分。これは常識らしく私が今まで知らなかっただけ。自家採種歴が15年を超えるというのにあまりのお粗末。何がかというと高水分状態での「打撃」が厳禁ということ。ということはうちのようなコンバイン採種だと策無しというわけにはいかない。これは大豆にも当てはまる。知らなかった人は調べて。そういう研究があるから。


お、おにぎり食いながら息子が合流して来た。頼んだぞ。



  • 執筆者の写真反田孝之

身内の不幸が続く。先月は女房の祖母、96歳。このたびは近所に住む私の叔父、81歳。ともに悪くなってからが早かった。


人が自宅ではなく病院で死ぬようになってから死は我々から遠い存在になった。現代ではその遠くなった死について、かろうじて考える機会を与えてくれるのが通夜の際の坊さんの説教だろうと思う。好き嫌いというとはばかられるが、このたびのお坊さんは地元中学で教鞭をとられていた方だから説教も分かりよくて好きである。子供らも死について生について幾ばくかの理解になったのではないか。


坊さんというのはいつも言う。日ごろから死について考えるのは良いことだと。私もそう思う。でも世の中には死の話なんて・・と嫌がる人の方が私の経験からも圧倒的に多い。こんな現代だからこそ坊さんの役割は大きい。通夜の席など含めて、我が子らには努めて「死」について考える機会を持たせたいと思っている。


お坊さん(浄土真宗)はいつもこういう。一心不乱にお経を唱えていれば極楽浄土へ行けるというのがお釈迦さんの教えだと。このことは私にとっては大変おもしろくて、一心不乱にやれば救われるのは何もお経だけではないのだろうと。お経以外のなんでもいいから「日々同じことを繰り返す、ただし大志をもって」ということが大事なのだろうと。そう解釈するから、同じことの繰り返し、しかしながら使命感を持っていなければきつい、という私の日常があまりにヒットするおかげで、自分の生きざまは「とりあえず」はこれでいいのだろうと思っている。こうやっているうちに幸せになって極楽浄土へ行けるかどうかは分からないけれど、意図せずお釈迦さんの言うような人生に導かれていると考えると、なるほど一見難儀な今の生きざまが何やら尊いものに思えてくる。正しく理解していない勝手な解釈かも知れないが、だからお釈迦さんってのは大した人だなあと。


お釈迦さんだけでなく、この娑婆にも大した人がたくさんいる。この娑婆で1人でも多くの「大した人」を見つけることは大変意義のあることだと思っている。


最後に、叔父には大変お世話になった。直接の関りは20代半ばで3年半一緒に仕事をしたこと。多くの土木現場をともにした。中でも大雪の大邑農道などは、ついこの前のことのように思い出される。

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