もっと痛快な経営
- 反田孝之
- 10月6日
- 読了時間: 2分
うちのように慢性的に忙しく、捨てる管理を常に選ばざる得ないような状況では、当然のことながら効率的なオペレーションが欠かせない。その中でしょっちゅう頭の中をよぎるのが、目先の効率と全体の効率との兼ね合い。
例で分かりやすいのが、次の稲刈りをするために乾燥機を空けようとする場合、すでに入っている籾を籾摺りをしながら排出するのと、籾摺りは後ですることにしてただフレコンバッグに籾のまま排出するのと、どちらが有利か、という場合だ。籾摺りをしながら出せば全体の効率は良いが、目先の効率が下がる。晴れているのに稲刈りが進まないということになる。一方で籾のまま排出すれば目先の稲刈りは進むが、後で籾摺りをするためにはひと手間が増えて全体としてはの効率は下がる。
とこれはあくまでわかりやすいシーンであって誰もが無意識に自覚できることである。しかし小さいことも含めれば、経営とは実はこの手の判断の連続となっていて、その小さいシーンに気が付くかどうか、そしてそれを積み重ねられるかどうかで築ける経営は大きく左右される。うちの経営規模と状態と私の細い体を見て驚かれる人は多い。その要因を他人事のように分析をしてみて、一番大きいのは間違いなく私のオペレーションの良さだろう。まあこの能力は学生時代から自覚していることでもある。
ここに体力というか骨太の肉体が備わっていれば、もっと愉快な経営になるだろうし、さらに言えば、洪水がこんなになければ雇用をして二回りくらい大きく痛快な経営となっているだろうと真面目に思う。こんなことを書くのも、そろそろ人生の総括がやってきた(笑)かと思うからだ。体調が悪い。守護霊頼みの人生もいよいよ限界か。よし、転生しよう。
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