言霊について
- 反田孝之
- 10月3日
- 読了時間: 2分
更新日:10月8日
私は冗談好きで口が悪く、ずけずけと消極的なことをよく口にする。例えば最近だと「あまり豊作だと辛いばかりでうんざりだ」みたいなやつ。そしてしばしば、眉をひそめて忠告してくれる人がいた。言霊だよ、そんなことをいうもんじゃない、と。
言霊、つまり言葉に宿る霊力について、強烈な不思議体験をしてきた私には決して否定する気にはなれない。でも言霊って、単に言葉のみに宿る霊力ではなく、言葉の奥底にある気持ちにも大きく関係するものだろうと私は思っている。つまり気持ちの入っていない言葉に言霊はないと。さらに一つ付け加えるなら、それは人を選ぶ。つまり「私の」適当な発言には言霊はない、と。
人を選ぶ、というのは私の仮説だ。女神教という教えがあるとしたら、女神に気に入られる人は消極的な言葉も許されるだろうと。そして私は女神に気に入られている。根拠はある。がそれはなかなかこんなところでは書けない。恥ずかしいから。
私が日ごろから冗談ばかり言うので、慣れない人には私の本心がわからないと思われている。例えば今の農業人生について、「作業で楽しいことなんかない」とか「日々はロクでもないことばかりだ」「このまま死んだら楽になるだろうな」的なことをしょっちゅう言っている。そう思われるのも仕方がないのだろう。
しかし今挙げたことは冗談っぽくある一方で、本心でもある。そして一方で、「生まれ変わってもまた今のような農業をしたい」とも思うし、できれば「洪水の少ないところで50haの規模で自然栽培をやってみたい」とも思う。これらも私の偽らざる本心だ。
言霊、大いに結構。でも言霊で多くを左右されたらつまらないだろうと思う。言葉尻を取る社会の傾向も気になるし。人間はきっともっと奥が深い。謙虚さとユーモアを持っていればさらに深い。だからこそこの世は面白い。
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