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  • 執筆者の写真反田孝之

今月の初め頃にちょうど就農20年目になったというのに、今年はあちこちでそのことに触れてきたから、いざそれを迎えたときにはすっかり忘れてしまっていた。それで今ごろ書いている 。


さっき10年目の記事をアーカイブで見てみた。当時の課題や期待を手に取るように思い出した。この10年はどんな10年間だったかを一言で表すなら、兎にも角にも、最大の懸案だった機械更新が、生来の運の良さもあって上手くゆき、今後の経営継続の可能性が大きく高まったこと、ということに尽きるだろう。そのくらいこの問題は大きかった。というよりこのことは、中規模(と敢えていう)で多くの機械を使うスタイルで始めたと同時に必然として背負った、宿命的な命題であった。集中する1回目の機械更新が軒並み上手くいけば成功、上手くいかなければ失敗。私の農業人生はそう言い切っても良かったのである。


もちろんこれからも機械更新は進行形だ。先月田植え機を新調したし、何より今、大型冷蔵庫の難題に直面していて、これはJA時代からの30年を超える代物で、業者の感触がどうも宜しくない。数百万なんて言葉も聞こえたから、聞こえなかったふりをしている。


しかし、機械更新についてはもう何とかやっていけるのではないかと思っている。それよりも今は築堤だ。2度目の国交省との協議の場で、ようやくゴボウが栽培し続けられる感触をつかんだと思ったら、沖に小堤防を作れという地域の声があると担当者が言われるのでビックリ。まさかそんな戯言が採用されることはないだろうが、築堤に関しては、まだ何がどうなるのか、油断がならない。


さあ、30周年はどうなっていることだろう。そもそも私は生きているのか。今の私の、支えを失ったような精神状態(病は気から)と、昨年亡くなった牛尾さんのことを思えば、決して杞憂とは言えない。

  • 執筆者の写真反田孝之

今日は末娘の最後の登園日。最後は「お父さんと行く」というので朝、送った。


卒園式は昨日終わっているのだけれど、保育園というのは普通は式の後も、登園の可能な3月末までは子供を通わせざるを得ないものだ。しかし我が子、今日だけは年下の友達とお別れするために登園するが、明日からはもう行かないと言い張る。それで今日が最後だというわけ。


長男から数えると、保育園には途切れることなく連続14年間お世話になったことになる。保育園への送迎が当たり前だった日々は今日をもって終わるのだ。女房の何分の一に過ぎない私でも、感慨深いものがある。


当地ではこの20年の間に、たしか4つの保育園が閉園した。最後の閉園が3年前で、それが長男が通った谷住郷保育園だった。今は娘が通うさくらえ保育園のみとなっており、微減でたどってきた園児数は、今後急激に減ると聞いている。


我が家は子供が3人いるが、これは当地にあっては極めて標準的で、4人、5人といる家庭も少なくない。子供を増やすことがネックになっていないという視点で見れば、田舎というのは大変住みやすい、もっといえば生きやすいところだということの証拠だと言えないだろうか。それでも少子化になるのは、そもそも戸数が減っているからである。つまり田舎の生きやすさを知らないだけだと言いたくなる。


話を戻して保育園。我が子は縁がなくなるが、私らはと言えば、食材の配達があるし、味噌づくりもあるので、これからも出入りはなくならない。地域の衰退、そして滅亡まで、ささやかに見守っていければと思っている。

  • 執筆者の写真反田孝之

にわかに忙しい。ラブストーリーは突然に。


とりあえず急いでいるのは、あと4haの耕うんだけなんだが、天気と用事で明日の10時までがリミットで、とても終わるものではない。体調不良でなければ夜と朝で余裕なんだが。例の発熱しない体調不良に襲われているのよな。

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